【RSR特別企画】RSRオーガニックファームからのつぶやき vol.2

RISING SUN ROCK FESTIVAL(RSR)で、環境対策活動を展開するEarthCareの特別企画『オーガニックファームからのつぶやき』第二弾!EarthCareに関わる方々と主催者のウエス若林さんをお招きした対談の模様を、数回に分けてお届けしています。第二回目の今回は、RSRの原点のひとつともいえるイギリスのフェスティバルの母「グラストンベリー」でのエピソードから、初めて迎えたRSR1999当日に迫りました。そして、初年度のごみの状況からアースケアの原形である環境対策活動に出会ったときのお話をお聞きしました。
前回の記事はこちらから

PROFILE

名前:若林良三(わかばやし りょうぞう)
所属:ウエス

名前:小林卓也(こばやし たくや)
所属:はるきちオーガニックファーム

名前:草野竹史(くさの たけし)
所属:NPO法人ezorock

民意で物事を動かしていくっていうヒントがあった

草野:ここまでで、1999年のRSRがどんな風に動き出してきたかってところと、フジロックの立ち上げでカルチャーショックを受けたというお話をお聞きしてきました。
若林:あと、イギリスのグラストンベリーっていう、今年ちょうど50周年を迎えるフェスティバルの母って言われてるフェスがあって。音楽はもちろんですけど、色んなパフォーマンスが行われるステージが60、70くらいあるのかな。元々ひとつの農家が自分の敷地内のパーティーから初めて。それからどんどん大きくなっていって、芝居だったり、コメディだったり、表現する人を集めている。そのうち、隣の農家に少し土地貸してくれって言って、その時だけ牛を別の場所に移して、そこがパーキングになったり、キャンプサイトになったりっていうのをどんどん増やしていって。今年は残念ながら中止になっちゃったけど、50年続いていて、本当に文化的で、全世界中からその時期目掛けて人が集まる。そのグラストンベリーに行って、そこで色んな考え方をインスパイアされたし、ずっと続けられる理由ってこういうところにあるんだなってアイデアをいっぱい見つけた。そのうちのひとつが、たまたま行ったバーだったんだけど。そこは、りんご農園の方が場所の提供をしているところで、そこで育てたりんごでシードルを作ってお客さんに売ってたんだけど、「お前来年来るのか?来年来るんだったら、カルバドスを仕込んどくよ」みたいな。で、サインして、デポジットして、それが来年来るって約束をしてるってことになって。地元の人たちも潤うし、自分たちもまた行けるって目標もできるし、循環するってことがすごい良いなと思った。そういったきっかけで、ただ真似するんじゃなくて、考え方とか理念を持たないと続かないなっていうことを何となくだけど思ってた。それが自分自身の中でもだんだん強く、ぶれない核になっていた気はしてる。

草野:それはやりながら洗練されていった感じなんですか?根っこの部分は元々あった?
若林:根っこの部分はやっぱり、強制的じゃなくて、自主的にやったり参加意識を持ってやらないと続かないなと思ったっていうのがあった。それは色んな部分でそうですよね。こういったごみをどういう処理するかもそうだし、ミュージシャンも同じように、単に今売れてる人とかじゃなくても、こんな面白いバンドいるよっていうのが、だんだん大きくなっていったり。20年も続けていくと、大レジェンドみたいな人にも出ていただけるようになって、若い人たちに本物のライブを見せるってことであったり、何なら親子三代のセッションができてたり。親子でやったりとかね。そんな風にようやく日本も音楽文化が出来てきたというか。アメリカだと、親子で共演したりとか普通にあるじゃないですか。
草野:日本じゃあんまりなかったんですね。
若林:なかなかないね。パフォーマンスにおいては、年とか関係ないじゃん。別にウエスがとか、RSRがとかじゃなくても、いずれ年は取るわけだから、続いていくために自分の中では次のフェーズに来てるのかなと思ってますね。
草野:そういう意味では、今年は大変な状況であったとは思うんですけど、20数年を振り返って、今後どうするんだってことを考える時間になってるってことなんですかね。
若林:なってる。なってるし、正直今年は相当なインパクトがある出来事だと思っているけど、インターネットも含めて、色んな形で音楽を届けることはできるし。エンタメってやっぱり後回しになるから。それよりも家賃とか食べることが前に来ると思うし、無くても生きていけるんだけど、あるとやっぱり心の豊かさが違うなとは思うよね。
草野:僕は最近、音楽やお祭りはなくてはならないもののような気がしていますね。ここまで最初の想いを聞いてきましたが、その思いをずっと続いてきたのを僕たちは感じて、アースケアとかをやってきてる感じはあります。最初のお話しとか、参加する意識とか。そういうことをどう表現していったら良いかなみたいなのが、この20年にぎゅぎゅぎゅっと収まってる気はしますよね。

そもそも農家になるとも思ってないし、ましてRSRに関わるとは

草野:1999年の時は、はるきちさんも会場に行ったんですよね。
はるきち:行ってますよ!もちろん。
草野:そうですよね。どうだったんですか?
はるきち:まじでたまげたね。たまげた。こんなのが世の中にあるんかって。僕、大学3年生で20歳だったんですけど、何にも分かってないから軽装で行って、夜中にものすっごい寒くて死にそうになって(笑)だから、こんなのができて、また来年もやるみたいな感じになって。こんなのが毎年あるんかって。ただただその時は、いちお客さんとして驚きとその魅力を感じました。今でも頭の中に全部残ってますよ。

草野:僕、行ってないんですよね。僕は翌年の2000年からだったんで。10年目の時にまとめた本作ったじゃないですか。あれのDVDに1年目の映像ってちょっと入ってたりして、あれを見てて。あれぐらいしか知らないんで。はるきちさん、まさか関わるなんて思ってなかったですよね?
はるきち:思ってなかったです。その時、そもそも農家になるとも思ってなかったし。
若林:そうなんだ。就職とか自分の将来どうしようかって感じだったの?
はるきち:そうですね。僕、環境問題を勉強したくて大学行ってるんで。だからその頃からアースケアみたいな考え方はなくはないんですけど、大学で勉強してたから。だけど、そもそも農家になるとも思ってないし、ましてRSRに関わるとは、本当に全く思ってなかった。なんせその頃はお客さんで行くことに力を注いでたんで。そのころは体力もあったから。どういうスケジュールで、どのステージに行って、どこで休んで、テントも張って・・みたいなことばっかり考えてて。農家になって、たい肥で関わるようになってからですよね。

見たことない景色、お客さんがびっしりで

草野:実際、1999年は思ったよりお客さんが入っちゃったんですか?
若林:2万7千人ですね。思ったよりも奇跡的に入っちゃって。1万5千人もいけば良いかなくらいだったんだけど。
はるきち・草野:えー、そうなんですか!
若林:単純に当時のアーティストの動員数を足していっても、9千人くらいだったと思うんですよね。でも当時、出版社と企画を立ち上げたので、そこから雑誌社が取り上げてくれたりとか。それを通じて、全国のアーティストのマネージャーが宣伝チームとして、「僕はこの編集者をくどいて取材してもらう」とか「僕はFMにこういったプロモーションかける」とか。マネージャーチームも東京宣伝チームとして独立して動いてくれて。それはもうほんとに忘れないですよね。
草野:予想してたよりも、1万人ちょっと多いくらいの感じですよね。実際どういう感じだったんですか?「大丈夫か!」みたいな?
若林:うーん、ドキドキはしてたけど、突っ張って「何とかなるだろう」とは言ってたね、みんな。ちょっと顔ひきつってるんだけど(笑)
はるきち・草野:(笑)
若林:見たことない景色で、お客さんがびっしりで。ちゃんとエクセルのようにきっちりと通路があってお客さんが並んでる風景。99年の前説の時は、共同のプロデューサーみんなで一言ずつしゃべったんだけど、「とにかく楽しもうぜ」しか言わなかったような気がする(笑)その時の風景はなかなか。墓場まで持ってくしかないなって感じだった

ごみのナビゲートしてるってカルチャーショックだった

草野:ちょっとアースケアの話になってきますけど、そしたらやっぱりお客さんもいっぱい入って、結局その時のごみの話から今の形になってくると思うんですけど。実際、会場の雰囲気だったり、ごみの状態っていうのはどうだったんですか。
若林:単純に多分ね、確かコンパネで作ったごみステーションっていう場所を、何カ所か置いていて。
草野:確か、箱だけをぼんぼんって置いてあったんですよね。はるきちさんは覚えてないですよね?
はるきち:覚えてないね。
若林:そうだね、そんな雑な感じだったので、やっぱり終わったらごみは散々飛び散ってるし、カラスもいっぱいやってくるし。僕も、どっちにしろどこの会場でも、ごみ箱を作るとバイト君も含めてごみを最後に片付けるって作業を自分もやってきてたんで。それもめんどくさいなとか。運ぶの大変だから、弁当殻も、ばんばん捨てるよりは、生ごみと弁当箱をちゃんと分けたら、きっちり収まるじゃないですか。そしたら運ぶのも楽だったりとか。っていうのは、当時から思ってたことはあります。

草野:実際そこで何とかしなきゃいけないなみたいな話は、若林さんが思われた?
若林:それもやっぱりフジロックで。当時、A SEED JAPANの羽仁カンタと出会うことになっちゃったところから。フジロックはどういう風にやってるんだ?ってなって、A SEED JAPANというNPOがごみのナビゲートしてることを知って。それは結構カルチャーショックでしたね。
草野:そうですよね。
若林:それまで、お客さんはやっぱりごみ捨てに来たら「ごみ箱どこよ」みたいな。「金払ってるんだから、ちゃんとやれよ」って感じ。で、バイト君がごみ拾いしてたりとか。
草野:「金払ってんだから、雇われたお前が処理するのがごみだろう」みたいな感じですよね。
若林:そういう感じだったものが、A SEED JAPANは、「自分たちでやってください。ただ、やり方はお伝えしますよ。あ、それ燃えるんでこちらに入れてください。」くらいな感じで。で、羽仁カンタ君と出会って、東京の事務所でこういうことやろうって話したときに「お前やるんだったら本気だろうな」みたいなこと言われたんだよね(笑)

最後まで読んで頂きありがとうございました。
第三回目は、さらに環境対策活動アースケアの原点に迫ります。「北海道のフェスは、北海道の人の手で」という言葉の通りezorockの誕生と「おかえりじゃがいも」の誕生秘話をはるきちオーガニックファームの小林さんと語ります。

次回もぜひお楽しみに!